2017年6月27日火曜日

「シマノフシギ」




大小様々な島が集まって一つの国として成立していた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


集落をシマと呼び、そのシマを跨ぐだけで言語がこれだけ変わる沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。



その言語が、一国の方言ではなく、世界の中の一つの言語として位置づけられていた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


生物種族を超えて、万物と会話していた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


しかし、それら全てが失われつつあるこの沖縄を、
沖縄の人々が驚いていないことは、全く持って不思議である。










「起源の果て」




「個性」を持つ。口々に人々はそれらを身に纏う。
奇抜で異色であったり、時に敢えて普通を装うことで違いを出す

それらを引きで撮ると枠からはみ出ない『画一的」な個性ばかりであることに気がつく。
それらは「習慣」か「伝統」か、はたまた「洗脳」か。

個性を装う「群性」をはねのけて本当の『オリジナル(起源)」に辿り着けたなら、その果てに全てに通ずる「真理」をみる。。







「Oriah Mountain Dreamer」





あなたの職業には興味はない。
知りたいのは、あなたが何に憧れ、それを叶えることを夢見ているかだ。

あなたの年齢には興味はない。
知りたいのは、愛や夢を手に入れるために、人生という冒険のために、
馬鹿だと思われても構わないかどうかだ。



【オライア・マウンテン・ドリーマー】







2017年6月26日月曜日

「ワノ国」






1903年、ライト兄弟が人類で初めての有人動力飛行に
成功してから113年。
この100年余りの間に、人類は空を飛び、宇宙へと到達した。

第二次世界大戦後、日本では農薬と“化学”調味料が広まり、ワノ国は飽食と万病を手に入れた。
(農薬と化学調味料が戦争兵器の応用であることは極めて容易に想像できる

1890年、東京・横浜での電話サービスが開始され、120年余りの間に、有線だった電話は無線になり、

インターネットと融合して、全ての機器へアクセスしうるデバイスへと進化した。

僕らが“当たり前”と委ねる“日常”はこの100年の間に造られたモノだ。
1度立ち止まって見渡すと、“進歩”と言われるモノの殆どが“進化”でないことに、気がつくだろうか。
己の心身に宿っていたはずの能力がナニモノかに取って代わられ、弱体化してゆく。
見えていたはずの光が見えなくなり、聞こえていたはずの声が聞こえなくなった。

仏壇の向こうにいる先祖の声を聞こうとしているだろうか
手を合わす事の意味を、合わせたその手と手で触れる触れられることの意味を考えた事があるだろうか。
呼びかけてくる子供たちの声を聞こうとしているだろうか
手を繋ぐ事の意味を、繋いだ手と手で触れる触れられることの意味を考えた事があるだろうか。

そもそも、こんな事を言うこと自体がもう既に理解すらされていないのだろうか。

子が産まれ、世代を経ていく毎に失われゆくモノがある。
子が産まれ、世代を経ていく毎に生まれてこないモノがある。

想念が奪われた。。






「尺度を奪われた人々」





何気なく使う物差しも、何気なく過ごす一日も、
気がついたら過ぎている一月も、思い起こす一年も、
僕らは本当の尺度で過ごしているのだろうか。

一日が太陽の動きで決まるなら、なぜ一月は月の動きで決まらないのか。

手を広げた長さの“尺”や、人が半刻で歩ける距離から導く“里”など、日常から忘れ去られた尺度。
本当に人は1年で1才の歳を重ねるのか?

自然の尺度を再考すると、エジプトのピラミッドが星座の位置と重なることや、
世界中の遺跡が一直線に並ぶことが容易に理解できる。

管理されない尺度を手にしたならば、本当の自由が手に入る。

価値観という尺度を気づかないうちに与えられてはいないだろうか?

ての尺度を今一度、各々が自身の手で積み上げることが重要でないかと思う。
本当の一分一秒は、足下の雑草の茎に観られる成長の跡(節)から観察できるのかもしれないのだから。。











「くくる」





「自分自身の中に評価軸を持て」。

然(さ)すれば、批判も賞賛もアドバイスとして受け取れ“糧”になる。
然(さ)らずば、批判は“皮肉”に聞こえ、“賞賛”により自惚れる。。






「慰霊の日」




あの日とは違う6月23日。
青空に浮かぶ白い雲が気持ちの良い晴天。
どんなに想像しても、あの日の地獄は想像できない。
だから今でも沖縄の一部の人は基地を容認し、中国が攻めてくるとか、基地反対運動が過激で米兵や米兵家族が可哀そうとか、沖縄の人を二分するマニュアルや工作にまんまとハマっている。
民意が見事に操られている。
反対するべきは、「米兵」でもない、「中国人」でもない。
対峙するべきは、「基地」であり、「戦争」だ。
基地反対派も基地容認派も、お互い向ける矛先がいささか間違っているように思う。
左翼や右翼
反対派や容認派
ウチナーやナイチャー 
そんな戦争のような種族・派閥争いを全て振り払い、武器やマイクを捨て、拳をほどいて両の手を合わせて、うーとーとー。
それがご先祖への本当の黙祷だ。

隣にいるのは敵か?君の敵はどこにいる?本当に敵はいるのか?
かつて争った琉球三山や琉球と大和も、今の状況から考えると馬鹿馬鹿しい争いと思えるように、今の争いも馬鹿馬鹿しい。
戦争をしたいがための工作に騙されずに、国々の“政府”を飛び越えて、国々の“人々”が手を取り合うことが大事だ。
それが、こんな小さな島の集まりである琉球が大陸を相手に交易して、約450年も一国として存在できた証である。

「なんくるねーさー」
「いちゃりばちょうでー」
「ゆいまーる、いーまーる」
と、
“誰とも争わない思想”
を僕らは決して絶やしてはいけない。。

(写真:伊江島の公益質屋跡の鉄砲や砲弾痕のある外壁。伊江島は沖縄で最も戦火が激しかった場所)