2017年11月22日水曜日

「サイドミラー越しの朝焼け」



ふと立ち止まると振り返る。
想い出されるのは、良き日かな。悔やんだ日かな。

ふと振り返ると押し寄せる。
そんな隙を自分自身に作らないように。
そんな暇を自分自身に与えないように。
人は止まらず歩みつづける。

美化されたあの日やあの人も、
責めても責めたりないあの事やあの言葉も、

間違いのない自分の中の足跡で。

過ぎ去った今と今とが
未だ見ぬ自分自身となる。

1日の始まりをサイドミラー越しに見る。

あの日の自分を見捨てるな。
この日の自分を裏切るな。


全ては1つである。。






2017年11月21日火曜日

「和気藹々(waki-aiai)」


インテリアデザイナーであるタイ人の友人から約3年前にタイ・バンコクにオープンする日本食レストランに飾られる日本語の文字のデザインを依頼されました。
そのデザインがこの3年間の間で紆余曲折を経てやっと日の目を見たことをお知らせ致します。

書かせてもらった文字は『和気藹々(waki-aiai)』。

筆で書かれたような“和気藹々”の「和」と「藹」の文字から飛び跳ねたインクがタイ地図と日本地図になっております。

タイ・バンコクにある日本食レストラン。そこにはタイの人々も訪れれば、観光で来る日本や外国の人々、もしかしたらタイに住む日本の人たちも日本を懐かしみながら食事をするかもしれない。
そんな人たちが和やかに食事をして関わってほしい。
そんな気持ちを文字にしました。

インテリアのデザインはタイ人の友人でありジョブパートナーでもある Teekawat Veerasettakul です。
Teaさん、ご依頼ありがとうございます!

タイ・バンコクに旅行の際には是非、日本食レストラン『竹亭(Taketei)』でお食事してみては如何でしょうか。


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About three years ago, I was asked design of japanese character. In order to display in japanese restaurant in Thai-bankhok. Its design realized.

Its character is “和気藹々(waki-aiai)”.

Jump ink of 「和(wa)」and 「藹(ai)」 has become Thai map and Japanese map.

I think , Various people will come this restaurant. Thai people , Japanese people and other country people. I hope various people spend a good time in this restaurant.
I include my feeling in this character.

This japanese restaurant TAKETEI interior design by Teekawat Veerasettakul.
He is my best friend and job partner.
Thank you so much Pee Tea my bro.
His design company name is “Teek Interior Design”.


Everyone , when if you go Bangkhok. Please go to 竹亭(Taketei) .
I wanna go !
竹亭(Taketei)'s information.


























2017年9月16日土曜日

「雨の日の駐車スペース」



あれは2011年。まだ大学生で、スーパーでアルバイトをしていた時の話。
スーパーの駐車場の一角にある身障者用の駐車スペースを眺めていてずっと違和感があった。

はっ!と気がついたのが、
「ここはバリアフリーになっていない」
ということだった。

そう、屋根が架かってなかった。

車椅子の人は雨の日に買い物に来れない。
これではいけない!と、アルバイトの身分云々など関係なく、強い使命感の下、勤務先のスーパーの社長へなんとか想いを伝えて実現してもらった。


(当時、その状況を綴ったブログ→http://aar.art-it.asia/u/tTOYOSAKI/KU5mG187prSsPFgcyD2q/?art-it-aar=d3cd0bdb34cfded643772b53faa3f4d3


今も、サンエーこじゃ食品館には屋根の架かった身障者用の駐車スペースがあります。


↓下記のブログを書いた人と同じくらい困っている人が、1人でも、この身障者用の駐車スペースで少しでも豊かな生活がおくれてもらえてたら。と、あれから6年間、今もずっと想っている。そして、そんな豊かな生活を創り出すのが「建築」だと想っている。。





[とある車椅子の方のブログ]https://ameblo.jp/itsumi-miracle-life/entry-12307898232.html










2017年8月10日木曜日

「沖縄建築」




先代、先々代の人々が
創り上げてきたもの。

幾日、幾月、幾年を経て存在するそれは
僕らにとっての

“廃墟”か“遺跡”か。


優しくも厳しくもある
島の風土の輪郭。

古来からの自然と対話する為にあるそれは
僕らにとって

“空虚”か“軌跡”か。


気付けているだろうか 
島からの問いかけに
築けているだろうか 
島と人々との関係を

僕らが受け継ぎ創り出し
新たに託していくそれらに

沖縄はどんな表情を

僕らに見せてくれるのだろうか。










2017年7月6日木曜日

「おじー」





城壁に座って遠くを眺めるオジー。

その先見て何想う?










「光のピント」




ピントは合ってても合ってなくてもそこに光がある限りはどれも正解だと思う。

人が実態を持っていなくて幽体だけで存在することがある様に、
“知覚できる”という事は、“光を放っている”という事だ。
“光を放っている”という事は“エネルギーを発している”という事だ。

つまりだ。それは生命だ。命だ。

僕ら一人一人が輝かしい。

好きな事を突き詰めて、そこから解き放つ光で周りの人を幸せにする事が人の理だ。。





















「職人の自慢話」




今日、電気屋さんが嬉しいこと言ったわけさ。

電気屋さんが「この住宅は俺の自慢になる」って言ってたわけよ。
嬉しかった。

沖縄少年会館や、那覇市民会館、その他、取り壊しになる建築の反対運動ってあるけど、
そこにいるのは何時も設計者。

何故そこに施工者がいないのか?
汗水流したはずの造り手がそこにはいない。


『職人が自分で自慢できる現場、建築であってほしい。

習いの10代も、熟練の70代も、鼻下を指で摩って自慢する。
そんな現場、建築であってほしい。
そうすれば、建築はもっと生きた存在になる。』


それが僕が建築施工に足を伸ばした理由の1つです。

電気屋さん、嬉しい言葉、本当にありがとう。
良い現場、建築にしていきましょう。。
















2017年7月3日月曜日

「シマトタシマ」




この星を外から見ると、ヒトは“民族”という“シマ”の集まりだということに気がつく。

長い年月、争いながらも少しづつ広い視野と広い精神を培い、
“タシマ”と心と言葉を交わすようになっていった。

五色の肌の色を飛び越えて、其々のアイデンティティを尊重し、
其々が其々でありながら其れで良しとする。

この星で“地球人”と呼び会えたなら、また次の次元へと行ける。

市町村、都道府県同士が争わないのと同様に、国同士の造られた争いに騙されるな。。












「きりん」




ある日に渡った津堅島。
台風の仕業か、時間の悪戯か。折れて朽ち落ちた木。
僕にはそれが、草原から顔を出す麒麟にみえた。


「なづける」



ふと眺めたその向こう。
火の鳥に見えたり、昇る龍の様であったり。

僕らは何かに意味を見出し名前をつけて、時に己を委ねる。
心あらわれるそれは、感情か、感動か。想像か、創造か。

果たして、僕らが意味を見つけたのか。
はたまた、意味が僕らを見つけたのか。

悩み奮い舞え。。



「陰謀という名の陰謀」





「世界的な事件は偶然に起こる事は決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと…私はあなたに賭けてもいい」


【アメリカ第32代大統領 フランクリン・D・ルーズベルト】

2017年6月27日火曜日

「シマノフシギ」




大小様々な島が集まって一つの国として成立していた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


集落をシマと呼び、そのシマを跨ぐだけで言語がこれだけ変わる沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。



その言語が、一国の方言ではなく、世界の中の一つの言語として位置づけられていた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


生物種族を超えて、万物と会話していた沖縄を
世界が驚いたということは、全く不思議ではない。


しかし、それら全てが失われつつあるこの沖縄を、
沖縄の人々が驚いていないことは、全く持って不思議である。










「起源の果て」




「個性」を持つ。口々に人々はそれらを身に纏う。
奇抜で異色であったり、時に敢えて普通を装うことで違いを出す

それらを引きで撮ると枠からはみ出ない『画一的」な個性ばかりであることに気がつく。
それらは「習慣」か「伝統」か、はたまた「洗脳」か。

個性を装う「群性」をはねのけて本当の『オリジナル(起源)」に辿り着けたなら、その果てに全てに通ずる「真理」をみる。。